2021年5月1日土曜日

【番外】帰国事業で北に渡った川崎栄子氏が43年の北朝鮮生活で見てきたこと


今回は従来と少し切り口が違うのですが、北朝鮮の拉致や当時の帰国事業について私を含めあまり知らないという方のために、「あちらで何が行われたのか」という詳細な内容が語られた動画がありますのでご紹介します。普通に見る動画としても非常に興味深く、話もお上手ですのでおすすめです。

動画が見れない方のために要約を箇条書きしてみます。

・在日韓国人二世の川崎さんは、戦後の貧困のため国内の普通高校に入学できなかった。朝鮮総連の特待生制度を使い京都朝高に入学。

・もともとは「北朝鮮帰国事業に反対」だったが、南北統一時に備え社会主義を知っておくために17歳のときこれに家族を連れず自分ひとりで参加。

・当時日本では、北朝鮮は「理想の国、豊かで物が溢れ地上の楽園」と言われていた。

・新潟港を出港、輸送船は日本領海を越えた。日本の警備船が帰ったあと船内アナウンス。「日本から持ってきた食料はすべて海上に破棄しなさい」

・北朝鮮の港に到着。過去に帰国事業で北に渡った京都朝高の先輩が港から怒鳴っている。
「船から港に降りるな。すぐ引き返せ。この国に入ってはいけない」

・港で歓迎する北朝鮮の人々の格好に驚いた。皆同じ粗末な作業服のようなものを着ている。冬の終わりなのに靴下を履いている人が居ない。「騙されたのでは」と乗員が騒ぎ始める。

・港に到着。北朝鮮ではご飯とおかずのお弁当が出された。多くの人が船旅で疲れて船酔いなどになっていてお弁当を食べなかった。一人の少女がそのお弁当を拾って回り大風呂敷に入れて持ち帰る。「もうこんなものも一切食べられなくなるのに」と言いながら。よく見ると数ヶ月前に帰国事業で北に渡った京都朝高の川崎さんの後輩だった。

・初代北朝鮮主席・金日成の絵が掲示されていた。これを取って踏み壊した帰国者の若者がいた。下船して1週間ぐらいの出来事だったが、すぐにその青年はいなくなった(処刑された)。

・他の帰国者達はほぼすべて通常の北朝鮮人民が敬遠する辺境の鉱山・炭鉱などに送られ、激務に就かされた。帰国者事業は朝鮮戦争で失われた労働力の補充が目的だった。

・当初、首都ピョンヤンで出された食事は米90%に雑穀10%。一歩ピョンヤンから外に出ると割合は逆転して雑穀90%に米10%になる。

・15日に一度だけ配給がある。雑穀の種類は大豆、とうもろこし、小麦、じゃがいもなどを単一でくれる。大豆だけを調理して食べると非常に消化が悪く、必ず腹を壊すので常に体調不良がつきまとった。

・とうもろこしだけを渡された場合は特定のビタミンが不足するため奇病が発生する。

・乳幼児・老人などはこの単一雑穀を食べる手段がないので、各地で日本に残った親戚に援助を求めるようになる。

・騙されて北に渡った川崎さんは、あの手この手を使って北朝鮮に来ないように日本の家族に伝えた。

・直接手紙には書けないので、当時小学4年だった弟のことを手紙に書いた。「弟が結婚してから妻と一緒に来てくれ。」など。遠い未来のことを近未来のように書くことで親に絶対に来ないように訴え続けた。

・帰国者の中に自殺者が出始めた。北朝鮮では自殺は「政府への反動」とみなされ、反逆者として死体をどこかに破棄される。数ヶ月後ぐらいには自殺者の家族もどこかに連れて行かれる。自殺=連座で罪に問われるので自殺すら許されないことを知ることになる。

・1988年、韓国でソウルオリンピックが開催された。その準備段階で北朝鮮でも同時開催を提案したが、視察の結果IOCに拒否される。そのため北朝鮮は世界青年カーニバル(社会主義国による総合的な祭り-莫大な予算がかかるため次の開催国が決まらず凍結していた)を開催することを決定。これには北朝鮮の経済が崩壊するほどの財力が必要になる。

・13次世界青年カーニバル開催に反対する金日成派と、権限移譲をほぼ受け終わっている金正日派がこれで対立、息子の金正日がこれに勝利し、開催が決定する。北朝鮮はこれにより極限状態に入り始める。

・1994年、建国英雄であった金日成が亡くなると、中国からの援助が絶えるようになった。そのため金正日は今まで行っていた配給をストップした。人民が餓死するようになる。最初に大生産地帯から死人が出始めたため、国自体が貧困の極みに達した。

・科学者、医者、学校教師から死んでいった。そのため女医は闇市で薬を売るようになった。

・金正日は人民が貧困と飢えで苦しむ中、全国から人を徴集し、国会議事堂を取り潰して金日成の墓を作り始めた。川崎さんは脱北することを決意する。

・基本的に、情報のパイプを持っている帰国者は北朝鮮にいても大きな情報はすべて入ってくる。しかし北朝鮮拉致については一切情報が入ってこなかった。

・ピョンヤンの一角に誰も入ることができない場所がある。そこには歩哨がいて各家庭を警備している。その場所に「日本人がいるらしい」という話は知っていた。後に、そこが拉致被害者たちの住んでいる場所であると理解した。