2024年10月21日月曜日

岡田有希子さん飛び降り事件

1986年4月8日、アイドル岡田有希子さんがサンミュージックが入るビルの屋上から身投げをされました。当時、私は学生で大変驚いたことを覚えています。
その後、色々な方が推測とか陰謀論じみたことを述べられており、真相がどうなのか今ひとつわかりません。

当時の福田時雄専務の話によると、彼女は2度自殺を試みており、1度目にガスとリストカットによる自殺に失敗し病院に運ばれています。
その後病院から帰りサンミュージックで福田専務と話をしていたわけですが、福田専務に社長から電話がかかり、彼がそれに出ていたときに岡田さんは抜け出して屋上から飛び降りてしまいます。これが2度目の自殺で、彼女は本当に亡くなってしまいました。

2度目の自殺の理由は「とんでもないことをしてしまった」「自殺の事実はマスコミに嗅ぎつけられ、多くの人に迷惑をかけるだろう」「もう本当に死ぬしかない」と感じたのだろうと言われていて、それは私も正しいと思います。

では1度目の自殺の理由はなんだったのでしょうか。
峰岸徹さんとの恋愛が破れたため、これは理由の一つだと思います。
しかし自殺の理由としては非常に単純すぎて、精神は参るかもしれないがそれだけで死ぬものだろうかという疑問しかありません。

彼女は死の直前に実家に里帰りしています。そして同時期(4月4日)にサンミュージック相澤社長の家から引っ越しをしており、一人暮らしを始めています。
孤独になり思い悩むことが多かったと思われます。

実家に戻ったとき、家族写真を見たそうです。そこには自分以外の家族が全員写っており、非常に寂しさを感じていたような記録があります。彼女は「芸能人になる」というある意味「わがまま」を通しました。その結果、家族との距離ができたのは仕方のないことです。

そして、歌手としては評価は十分されていたのですが、彼女が目指したようなトップアイドルとしての評価ではなかったようです。私も当時は芸能に大変興味をもっており、失礼ながら彼女は有名アイドルの一人という認識はありましたが、一時の松田聖子のような評価はされてなかったと思います。

今YouTubeなどで彼女の曲を聴くと、驚くほど上手で松田聖子にも引けを取らない素晴らしい楽曲が多いなと感じており、そして17、8でどんな難しい曲も歌いこなす技量と表現力に本当に感心しています。どうして当時気づかなかったんだろうと思っています。(私はかしぶち哲郎氏が作った彼女の楽曲が好きです)

当時は私も記憶がありますが「おニャン子クラブ」全盛の頃で、岡田有希子さんは「歌が上手なだけじゃだめだ。人気というのはそれだけでは出ないのだ」と思っていたそうです。確かにおニャン子クラブの歌唱力というのはお世辞にも高いとは言えず、評価できるのは工藤静香ぐらいのもので、あとは素人レベルのものでした。それでもCD売上はおニャン子クラブのほうが高かったのです。

彼女は歌手になるために、親から条件として課せられた当時の全国テストで上位に入るほど優秀で、努力を惜しまない人でした。しかしトップアイドルとなるためには努力だけではない要素が多分に必要だったのです。彼女には自分が選んだ業界は正しいものだったのかという葛藤があったのではないでしょうか。

死の前、福田専務から「これからのサンミュージックはお前が背負っていくのだから」と言われた岡田有希子さんは、「私より良い人がいるじゃない」と泣きながら酒井法子の名前を出したようです。生真面目で秀才型、努力を惜しまない彼女は、とびきり明るくて華がある酒井法子に自分の持っていないものを見つけたのかもしれません。

失恋、一人暮らしの孤独、自分の理想とするトップアイドルの道、様々な悩みとオーバーワークの精神不安定が重なり、突発的な行動を起こしてしまったというのがこの事件の真相ではないでしょうか。



2021年5月1日土曜日

【番外】帰国事業で北に渡った川崎栄子氏が43年の北朝鮮生活で見てきたこと


今回は従来と少し切り口が違うのですが、北朝鮮の拉致や当時の帰国事業について私を含めあまり知らないという方のために、「あちらで何が行われたのか」という詳細な内容が語られた動画がありますのでご紹介します。普通に見る動画としても非常に興味深く、話もお上手ですのでおすすめです。

動画が見れない方のために要約を箇条書きしてみます。

・在日韓国人二世の川崎さんは、戦後の貧困のため国内の普通高校に入学できなかった。朝鮮総連の特待生制度を使い京都朝高に入学。

・もともとは「北朝鮮帰国事業に反対」だったが、南北統一時に備え社会主義を知っておくために17歳のときこれに家族を連れず自分ひとりで参加。

・当時日本では、北朝鮮は「理想の国、豊かで物が溢れ地上の楽園」と言われていた。

・新潟港を出港、輸送船は日本領海を越えた。日本の警備船が帰ったあと船内アナウンス。「日本から持ってきた食料はすべて海上に破棄しなさい」

・北朝鮮の港に到着。過去に帰国事業で北に渡った京都朝高の先輩が港から怒鳴っている。
「船から港に降りるな。すぐ引き返せ。この国に入ってはいけない」

・港で歓迎する北朝鮮の人々の格好に驚いた。皆同じ粗末な作業服のようなものを着ている。冬の終わりなのに靴下を履いている人が居ない。「騙されたのでは」と乗員が騒ぎ始める。

・港に到着。北朝鮮ではご飯とおかずのお弁当が出された。多くの人が船旅で疲れて船酔いなどになっていてお弁当を食べなかった。一人の少女がそのお弁当を拾って回り大風呂敷に入れて持ち帰る。「もうこんなものも一切食べられなくなるのに」と言いながら。よく見ると数ヶ月前に帰国事業で北に渡った京都朝高の川崎さんの後輩だった。

・初代北朝鮮主席・金日成の絵が掲示されていた。これを取って踏み壊した帰国者の若者がいた。下船して1週間ぐらいの出来事だったが、すぐにその青年はいなくなった(処刑された)。

・他の帰国者達はほぼすべて通常の北朝鮮人民が敬遠する辺境の鉱山・炭鉱などに送られ、激務に就かされた。帰国者事業は朝鮮戦争で失われた労働力の補充が目的だった。

・当初、首都ピョンヤンで出された食事は米90%に雑穀10%。一歩ピョンヤンから外に出ると割合は逆転して雑穀90%に米10%になる。

・15日に一度だけ配給がある。雑穀の種類は大豆、とうもろこし、小麦、じゃがいもなどを単一でくれる。大豆だけを調理して食べると非常に消化が悪く、必ず腹を壊すので常に体調不良がつきまとった。

・とうもろこしだけを渡された場合は特定のビタミンが不足するため奇病が発生する。

・乳幼児・老人などはこの単一雑穀を食べる手段がないので、各地で日本に残った親戚に援助を求めるようになる。

・騙されて北に渡った川崎さんは、あの手この手を使って北朝鮮に来ないように日本の家族に伝えた。

・直接手紙には書けないので、当時小学4年だった弟のことを手紙に書いた。「弟が結婚してから妻と一緒に来てくれ。」など。遠い未来のことを近未来のように書くことで親に絶対に来ないように訴え続けた。

・帰国者の中に自殺者が出始めた。北朝鮮では自殺は「政府への反動」とみなされ、反逆者として死体をどこかに破棄される。数ヶ月後ぐらいには自殺者の家族もどこかに連れて行かれる。自殺=連座で罪に問われるので自殺すら許されないことを知ることになる。

・1988年、韓国でソウルオリンピックが開催された。その準備段階で北朝鮮でも同時開催を提案したが、視察の結果IOCに拒否される。そのため北朝鮮は世界青年カーニバル(社会主義国による総合的な祭り-莫大な予算がかかるため次の開催国が決まらず凍結していた)を開催することを決定。これには北朝鮮の経済が崩壊するほどの財力が必要になる。

・13次世界青年カーニバル開催に反対する金日成派と、権限移譲をほぼ受け終わっている金正日派がこれで対立、息子の金正日がこれに勝利し、開催が決定する。北朝鮮はこれにより極限状態に入り始める。

・1994年、建国英雄であった金日成が亡くなると、中国からの援助が絶えるようになった。そのため金正日は今まで行っていた配給をストップした。人民が餓死するようになる。最初に大生産地帯から死人が出始めたため、国自体が貧困の極みに達した。

・科学者、医者、学校教師から死んでいった。そのため女医は闇市で薬を売るようになった。

・金正日は人民が貧困と飢えで苦しむ中、全国から人を徴集し、国会議事堂を取り潰して金日成の墓を作り始めた。川崎さんは脱北することを決意する。

・基本的に、情報のパイプを持っている帰国者は北朝鮮にいても大きな情報はすべて入ってくる。しかし北朝鮮拉致については一切情報が入ってこなかった。

・ピョンヤンの一角に誰も入ることができない場所がある。そこには歩哨がいて各家庭を警備している。その場所に「日本人がいるらしい」という話は知っていた。後に、そこが拉致被害者たちの住んでいる場所であると理解した。


2018年8月16日木曜日

恵庭OL殺人・死体遺棄損壊事件

※この事件は確定判決が出ている上に被告が懲役刑を終えて釈放されている事件ですが、被告側から何度も再審請求が出ているいわゆる「冤罪」も考えられる事件ということで取り上げようと思います。

この事件の被害者が発見されたのは平成15年3月17日の朝8:20のことです。恵庭市北島の雪が残っている農道脇に、黒く焦げたような物体が横たわっていました。
恵庭市北島の農道、現場付近
死体が横たわっていたと思われる草むら跡(2017年現在)
2000年当時の現場

この道路をその時間に通りかかった、幼稚園の送迎バスを運転する女性運転士が、近所の主婦(バスに子を乗せに来たお母さん)に黒い物体について確認してくれるよう依頼し、主婦が現場に別の自家用車で確認に行くと、人の肋骨が見えた焼死体をそこに発見し、消防署に通報しました(本来は警察に通報するケースですが、慌てていたため消防署に通報してしまったようです)。

遺体は前日夜から行方不明になっていた、日本通運東札幌支店キリンビール事業所契約社員の女性、Hさん(24)で、下半身が炭化するほど燃やされていました。死因自体は絞殺でした。絞め殺されてから火をつけて燃やされたことになります。

現地で火柱が上がるほど何かが燃やされているのを目撃した人が3人ほどおり、時間は3月16日の夜23:00頃ということは共通しているので、死体が遺棄され燃やされたのはこの時間付近であることは間違いないと思われます。

道警の捜査が進むにつれ、一人の人物が重要参考人として浮かび上がってきます。Hさんの同僚の日本通運契約社員、Oさん(29)という女性です。

Oさんと被害者、そして日本通運社員のIさん(男性)は当時、三角関係に陥っており、その上、死体が発見された3月17日の前日、最後に被害者と接触した人物がOさんだったのです。Oさんと被害者は3月16日の夜21:30ごろに連れ立って会社を退勤しています。

当日、残業していた男性社員が、「この二人が一緒に帰るのは見たことがなく、こういったことは初めて目撃した」と証言しています。

またOさんは当日、仕事の量がだいぶ残っており、被害者はさほどでもなかったため、20:00ごろにOさんが被害者に対して「私を置いて行かないでね」と声をかけたのを聞いた社員の証言があります。

被害者のHさんの車(パジェロジュニア)は長都駅前駐車場の脇に駐車されており、これは3月18日に発見されましたが、出社時と位置が変わっていないようです。
職場から駅前駐車場までは500mほど

Oさんは約2ヶ月後に逮捕され、裁判が行われ、最高裁で控訴棄却となり懲役16年が確定しました。
私にはOさんが冤罪で裁かれたのか、それとも実行犯なのかというのははっきりとはわかりません。そこで判決文からなぜOさんが懲役16年に処されたのか確認していこうと思います。

確定審の審理経過(リンク)
判決の理由

【裁判では、被害者の職場であった「日本通運札幌東支店キリンビール事業所」の従業員が非常に高い確率で犯人である、と考えられていた】
・被害者の携帯電話が、被害者死亡(3月16日23:00)の後も発信されており、犯人が死亡時刻を遅らせる工作によって、アリバイを偽装するために発信したものと考えられた。

・被害者の携帯電話は、移動しながら発着信していた。携帯電話は発着信の際には、もっとも信号を強く受け取れる基地局と、電波をやり取りするシステムになっている。この性質を考え履歴の追跡をすると、Oさんの移動とこの携帯の発着信位置がほぼ重なった。

・被害者の携帯電話は、3月17日の15:30頃に、日本通運キリンビール事業所の被害者が使っていたロッカーから、電源を切った状態で発見された。移動しながら発着していた携帯電話が、いつの間にかロッカーに戻されていた事になる。ロッカーがある女子更衣室は、事業所2階の部外者立ち入り禁止の場所にあるため、携帯を戻した犯人は社内の人間であると判断できる。

・女子更衣室は移転したばかりで、被害者本人のロッカー位置を知っている人間は社内の女子の一部であった(ロッカーには名札もついていない)。つまり部外者には知りえない情報であった。

【死体を燃やすのに使われた油は灯油を含む油類であった】
・Oさんは事件の直前にコンビニエンスストアで10L入りの灯油ポリタンクを買っていた
・Oさん母に部屋の掃除をするように言われ、掃除中の暖房用に購入したもの。

(この灯油についての証言が理解不能のものだったため非常にOさんの立場が悪くなったと思われます。裁判官が疑問に思った箇所を抜き出してみます)

●灯油ポリタンクの蓋が緩んでおり、車内に灯油がこぼれてしまった
→何らかの使用をしたためにこぼれたと連想されます
●事件発生後、「Oさん、あなた警察に疑われているよ」と忠告してくれる人がおり、怖くなって灯油がほぼ10L入ったタンクを草むらに捨ててしまった
→灯油がほぼ10L入っていれば「この灯油を使って被害者を焼いてない」証拠になり、裁判自体が一気にひっくり返るほどOさんが有利になります
●灯油ポリタンクを捨てた後、また別の10Lポリタンクを買っている
→なぜ捨てた場所に最初のタンクを見つけに行かないのか疑問

【Oさんの車のタイヤに通常では出来ないはずの燃えた跡があった】
●タイヤ店のピットクルーが確認した際、200度以上にならないとつかない変形跡がタイヤに存在していた。

【Oさんに被害者を殺害する動機があること】
・交際していたOさんとIさんの間に別れ話が出ており、Iさんが新たに交際を申し込んだのは被害者だった。Oさんは過去に交際していた男性に、このことを何度も相談しており、彼女が通常の状態でなかったと証言している。なお、OさんはIさんが被害者と何度もプライベートで会っているのを目撃していて、心変わりを十分に承知していた。

●3/12の午後、Oさんは小学校からの付き合いである友人と会い、Iさんとの交際がうまく行っていないことを泣きながら訴えた。友人は普段とあまりにも違うOさんの様子に驚いたと証言している。

・Oさんは被害者の携帯電話、家電話に3/12~3/16の間220回も電話をかけている。実際に電話が通じたのはそのうち14回で、あとの通信は呼び出し中に電話を切るというものであった。これはいわゆるいたずら電話と考えられる。

●3/16、23:00(被害者死亡時刻)以降にはこの手のいたずら電話はプッツリと止まった。

●職場の係長が、事件日の20:00頃に怖い形相で被害者を睨むOさんの姿を2度目撃している。被害者は机に向かっていたので気づかなかったが、普通の話をしているのに鬼の形相で被害者を見ているOさんのギャップを変に思ったと後に証言した。

【Oさん以外の事業所従業員にはアリバイがあるか、携帯電話の移動履歴から割り出される移動行動がなかったこと】
・事業所職員51名中47名には3/16 21:30~23:30のアリバイがあり、残りの4名についてはアリバイが無いものの、動機や被害者携帯電話の移動履歴と住所などの一致性がない。(Iさんにはその後も会社で残業をしていたと言うアリバイが存在します)
・アリバイ一覧に修正が加えられた件については、誤記を修正したに過ぎず信頼性が損なわれるものではない。

弁護側反論とそれに対する裁判所側の判断

【Oさんにはアリバイが存在する】
・死体遺棄現場付近に立ち上る火を見ていた人が3人ほど存在し、その中に2頭の犬の散歩をしていた1名がいた。
・23:15頃に初めて見えた炎が、散歩を続けた23:22頃には1/3ぐらいの火勢になっており、その後2頭目の犬の散歩に出かけた23:42頃にはまた火の勢いは元のように戻っていた。翌0:05頃に散歩を終えてから見ると、また1/3ぐらいの火勢になっていた。
・つまり火の勢いは強→弱→強→弱と変遷しており、これは23:42頃に灯油を継ぎ足したと考えられる。その後犯人は現場からいなくなった。
・この説が成り立てば犯人は現場に23:42頃に滞在していたことになり、ガソリンスタンドにいた23:30頃のアリバイが成立する。
>裁判所側の判断
・人体には皮下脂肪という物があり、いったん灯油により燃え上がった炎が弱まった後、皮膚を突き抜けて皮下脂肪に達した場合、炎は勢いを得て当初のような状態になることがある。
・警察側豚燃焼実験により、10Lの灯油をかけて燃やした際2~30分で火の勢いは弱くなったが、皮下脂肪の独立燃焼がこれを助け、1時間43分燃え続けた。
・故に火の勢いの変化によって現地に犯人がいたという証拠にはならない。

【たった10リットルの灯油では人が炭化するほど燃えない】
・被害者の体重は燃やされる前後で9kg減っている。
・人体の60%が水分だとすると、5.4kgの水分を気化させるために3287kcalが必要である。
・灯油10L分の熱量は864kcal(灯油自体の気化エネルギーを引いたもの)であり全くこれに足りない。
>裁判所側の判断
・灯油の燃焼温度は1000度で、皮下脂肪に到達した場合、皮下脂肪は350度で発火する。
・皮下脂肪の燃焼温度は800度に達する。
(ちなみに皮下脂肪1kgの熱量は7200kcalだそうです。どの程度の熱量が純粋に利用されるのかわかりませんが)

【被害者携帯電話の移動履歴のデータを提出した携帯電話会社の証言は信用できない】
・エクセルで携帯会社社員が作成したデータは、証言の方法では正しく作ることが出来ない。
・故に携帯電話会社の位置情報を含めたデータは信頼性に欠け、Oさんが移動した履歴と携帯電話が移動した履歴を重ねあわせて犯人であるという証拠にはならない。
>裁判所側の判断
・確かに携帯電話会社側の証言によるデータ作成法と、再現されたデータは異なる可能性がある。
・しかし確認可能な3月17日のデータを、被害者携帯電話と携帯電話会社が提出した資料の2者で照らし合わせると、きっちりと合致する。
・さらに携帯電話会社の通話履歴データ作成者はこの事件の利害関係者ではなく、データを改ざんする必要性がない。
・以上を鑑みると、データ作成者は作成法について勘違いの証言をしただけで、データそのものについて信頼性を欠くものではない。

【死体焼損現場からガソリンスタンドまでは20分以上かかる】
・死体焼損現場からガソリンスタンドまでは法定速度ないし指定速度を超過して車で走行しても20分以上を要する。
・仮に犯人が死体焼損現場を23時15分頃に離脱したとしても,23時30分にガソリンスタンドにいたOさんは犯行を行えるはずがない。
現場、ガソリンスタンド、職場の位置関係

>裁判所の判断
・道路凍結、信号待ち、その他の要素を加味した場合、2点間の移動時間は18分30秒~21分程度かかると予想される。
・死体発見現場から炎が上がったのは23時頃であり、23時15分頃に炎が強かったと言えども犯人がそこにいたかどうかは不明である(アリバイが成立するための条件にはなりえない)

現場からガソリンスタンドまでのおおよその所要時間(2018年夏・深夜)

2017年12月31日日曜日

石嵜容子さん行方不明事件

1990年(平成2年)12月31日の大晦日、茨城県猿島郡三和町に住む中学2年の石嵜容子さん(14)が行方不明になりました。

いなくなったのは午後5:00~6:00ぐらいの間で、連れ去られた現場はわかっていませんが、容子さんが乗っていた自転車が放置されていたのが川沿いであることから、この付近で何者かに連れ去られたものと思われます。

翌1991年1月1日に石嵜さんの家に容子さんから電話があり、「周りにたくさん人がいて帰れない」と話していたとの証言があります。



容子さんはクラブ活動を終えて一度自宅に帰った後、友人と一緒にスーパーで買い物をし、ガラス工場がある十字路で友人と別れたあとに帰路についたことになっています。

この地区で言うスーパーはおそらくマスダ三和店ではないかと思います。このスーパーは30年ぐらい前からこの土地にあります。(編集人も茨城に住んでおりますが、やはり近隣に1980年台からマスダがあります。現在カスミ三和店というスーパーも近辺に存在しますが、1990年時点ではまだできていなかったようです)

友人はたぶんガラス工場の北のほうに住む方なのではないでしょうか。そしてガラス工場はハリオという会社だと思われます。

そこから容子さんが自宅方面に帰るわけですが、途中に川がありまして、その辺りに自転車が放置されていたということです。尚、自転車は自宅と反対方向に向いていたようですが、もみ合ったり逃げようとした可能性もあるのであまり参考にはならないと思います。

地点①を東に見た景色。右電柱に電灯あり。
ただ、川沿いの道というのがこれまた寂しい道で、グーグル・マップで見てみますと周辺に家がほとんどなく、12月末の17:00以降になると真っ暗で人通りもない道だというのがわかります。

地点①を西方向に見た景色。かすかに先の電柱に電灯がついているのがわかります

地点②を東に見た地点。一面畑です。大声を出しても気付かないか、この場所に来るまでに逃げられます

地点②を西に見た橋付近。ここには電灯がまったくありません


当時は1990年でこの写真(2012年時点)から22年も前であり、さらに閑散としていたであろうこと。以前確認された情報として「自宅そばの川沿いに自転車が放置されていた」という話から地点②あたりで自転車が発見された可能性が高いです。

 また、自転車の前かごにはスーパーで買い物をした袋が残されており、中にはスナック菓子、ノート、袋ラーメンが入っていたことから「家出」の線は極めて薄いと考えられます。(家出をする前に学校で使うノートや、鍋でつくるラーメンを買わない) 

 以上のことからこの事件は拉致、しかも北朝鮮の拉致の疑いが極めて濃厚と思われます。理由としては「人がいない、あるいは気づかない場所・時間帯を狙った計画的拉致」「拉致した後、電話できる環境=生かして北朝鮮につれていく」「大人数による組織的犯行(大勢周りに人がいる)」などです。

当然、一般の中学女子を組織的に拉致する集団など日本にはまずいませんから・・・ もし北の拉致なら、おそらく現在も容子さんは生きているはずです。現在41歳、無事に帰ってきてくれれば良いのですが。





2017年4月12日水曜日

茨城県藤代町・根本直美さん行方不明事件

昭和62(1987)年6月20日(土曜日)、茨城県北相馬郡藤代町大曲(現・取手市大曲)の根本直美さん(15歳)が行方不明になりました。



当時、直美さんは高校1年生で、テニス部の部活動を終え、友人たちと自転車で帰宅。友人と別れ一人になった帰り道に消息を断ったものです。

直美さんの通っていた高校は藤代紫水高校。自宅は藤代町の大曲にあり、ほぼ真東の位置に当たります。

直美さんの身長は168cm、体重は52kgということで高1女子としては痩せ型で身長が高めという感じでしょうか。近視だったそうで、本人の特徴としては右のふとももに子供の頃のやけどの跡が薄く残っているということです。

ソース元:
荒木和博BLOG 荒木さんのブログから引用します。
【失踪状況】
テニス部の部活を終え下校する。
途中まで友達と一緒に帰り、午後7時頃その友達と別れて以後行方不明。
友達と別れた交差点から自宅までの中間地点にある神社の近くで自転車と本人のバッグが見つかった。

1987(昭和62)年6月20日(土曜日)、高校1年生の根本直美さん(当時15歳)は学校での部活を終え、他の部員8名とともに自転車で自宅に向かう途中、自宅まで約800mの地点に架かる『小貝川橋』のたもとで午後7時15分頃、部員達と別れ、一人で川沿いの道を自宅方向に向かったが帰宅せず、心配した母親が様子を見に行ったところ、自宅から約400m程の位置にある『熊野神社』前の土手に直美さんの自転車が倒れ、通学時に持っていたバッグも放置されているのを発見し、周辺を探したが直美さんは見つからず行方不明となった。

当日の夜は父親が神社裏手の集会場で地域の会合に出席するため午後7時頃にこの道を自家用車で通過していたが「不審な車両や人物を見た記憶はない」という。
一方、警察の捜索では警察犬も投入して捜索を行ったが、自転車が放置された場所から先の自宅方向に警察犬は動かず、直美さんの足取りは『熊野神社』前で消えている。
失踪直後直美さんの実家には3日間、警察が泊り込みで捜索に当たったが、警察が引き上げた直後の夜に無言電話があり、母親が電話口で「もしもし?」と呼びかけると電話は切れ、その後はいたずらと思われる電話が2回ほどあったのみである。

また直美さんを探していた両親は後日、直美さん失踪の前日(6月19日金曜日)の夜に直美さんの自転車が放置されていた熊野神社(大曲地区)の対岸にある藤代地区で「会社帰りの女性が白い車に追いかけられた」との情報を得たが人物の特定が出来ず、真偽は不明のままとなっている。
当日も直美さんと一緒に部活に参加していたが、3年生は早く練習が終わり、姉は午後3時か4時頃には帰宅している。

地図的には以下のような状況になります。



直美さんはAの小貝川橋で友人と別れ、友人らはこの地図で言うところの藤代小側に向かい、直美さん自身は小貝川に沿う形で南下したと思われます。

Bの失踪現場付近をクローズアップしてみます。




まず、報告書にあった「熊野神社」という表記ですが、この近辺に熊野神社は存在せず、大曲地区周辺で該当する神社はこの「日枝神社」のみです。

直美さんは赤いルートか、青いルートを通って自転車で帰宅していたものと思われます。
(藤代バイパスというのがハッキリ出来たのは1990年代以降で、この立体交差のような道はなかったかもしれません。つまり青ルートで帰っていたかも。しかし荒木さんのレポートでは土手側ということになっていますので赤ルートかもしれません。)

行方不明当日、大曲集会場で会合していたお父さんは、19:15分頃に直美さんがいなくなったであろう場所を19:00頃に通過していますが、不審な車などを確認出来ていません。

ところでこの神社~大曲地区がある場所はちょうど土手がぐるりと囲んでいて、周りから見えづらい状況になっています。



グーグルのストリートビューで見てもそれは一目瞭然です。





ご覧の通り対岸からは全く見えない状態です。
また、神社付近は家もまばらで拉致し易い環境といえるでしょう。

警察犬の臭気判定でも神社で匂いが切れているということですし、車に乗せられ拉致された可能性が高いものと思われます。
それが北朝鮮の手によるものなのか、日本人の手によるものなのかは不明ですが・・・

ただ1987年ごろはまだ北朝鮮の日本人に対する拉致が行われていた時期に合致しますし、バッグの中のお金(1万円強)が手付かずで残されており金銭目的でないこと、バッグや自転車などが放置されていて発覚を恐れない大胆な手口であり、捜査が始まってもすでに日本にいないこと前提で動いているであろう事など、極めて北朝鮮による拉致の線が濃厚であると言えるでしょう。

2016年8月14日日曜日

世田谷一家殺害事件(1999年)

1999年12月31日、世田谷区上祖師谷の宮沢みきおさん(44)宅で、一家4人が殺害されました。

<<当初の見立て>>

【犯行経路】
12月31日23:30頃、犯人は中二階の風呂場の窓から侵入。中二階の子供部屋で6歳の男の子・礼くんを絞殺(窒息死)しました。その後、家長であるみきおさんに1階の階段下で遭遇。みきおさんは犯人に複数回刃物で刺され失血死。

その後犯人は3階のロフトに向かい、妻の泰子さん(41歳)と娘のにいなちゃん(8歳)を殺害。やはり刃物による殺害。

【犯人の奇行】
・12月31日23:30~翌1月1日10:10まで殺害現場にとどまる
・アイスクリームをスプーンを使わずかじりつき4つ完食
・引き出しの中身(書類など)を無造作に取り出し水が張られた浴槽に投げ出す。(浴槽の窓は開いていた)
・インターネットを使ってある劇団のホームページにアクセスし、チケットの予約を試みる
・インターネットでみきおさんの会社HPにアクセス

【犯人の遺留品】
・ラグランシャツ(返り血有り)・・・裏返しに脱がれて床におかれていた
都内では10枚だけ販売された

・黒のダウンジャケット(返り血なし)・・・犯行前にリビングのイスに丁寧にかけてあった
ユニクロ製エアテックジャケット(黒・L)

・ヒップバッグ

・ニット帽
毛糸織

・手袋
エドウィン製

・大量の指紋


・DNA型

【事件の背景・容疑者たち】
・近所に集まるスケボー少年たちとトラブルになっていた
・都の公園事業にまつわる土地に関するトラブルがあった(暴力団員・覚せい剤常習者による)
・公園拡張で世田谷区に買収予定だったみきおさん宅に、その代金としての多額の現金があった。
その金を狙ったアメリカ人武装強盗団が来日していた
・ソウルマフィア(キレやすい人物)が周辺に滞在


<<現在わかっていること>>
・犯人が滞在していたと思われていた1月1日10:10には、実は犯人はもうすでにおらず逃走していたものと見られている。パソコンの起動状況から、犯人が朝までいたと思われていたが、第一発見者である泰子さんの母親が、みきおさん宅に異常を感じ入った際にマウスに触れたことにより誤作動を起こしたものと思われる。
・その関係で、以前に無関係とされた犯人と思しき目撃証言が有効化してくる。



2016年8月6日土曜日

群馬県 横山ゆかりちゃん事件(1996年)



  
1996年7月7日(日)、事件は群馬県のパチンコ店で発生しました。横山ゆかりちゃん(4歳の女の子)が、パチンコ店から突然姿を消したのです。


ゆかりちゃんは父と母、妹(当時0歳)の3人とパチンコ店を訪れました。七夕感謝デーのちらしを持って10:30ごろ来店。当時は子供連れの家族も珍しくなかったようで、当日も4~5人の子供が店内にいたそうです。

 
(当時「パチトピア」 現在は「ドバット太田南店」 大田市高林東町1594)


時間を持て余していたゆかりちゃんは、店内をウロウロしていました。その後 正午ごろ、持ってきたお弁当をお母さん(と妹)と一緒に自分たちの車の中で食べました。ゆかりちゃんは食欲がなく、ほとんど食べずに3人はすぐに店内に戻りました。

誘拐犯と思われる、帽子にサングラスの男が入店してきたのはPM1:27頃。男はパチンコを打たず、店内をぐるぐると回っていました。まるで他に目的があるように。


ゆかりちゃんはPM1:32頃、「もういちどご飯を食べたい」とお母さんに伝えました。お母さんはお弁当をゆかりちゃんに渡し、店内の長椅子で食べるように言いました。


長椅子の隣には先程のサングラスの男が座っていました。その後、ゆかりちゃんはお母さんの元に歩いてきて、「やさしいおじちゃんがいる」と伝えました。お母さんは「ついていったらダメよ」と念を押したのですが、その後ゆかりちゃんは店内からいなくなってしまいました。

店内の防犯カメラ記録によると、まずサングラスの男が長椅子から離れ、その後2分してゆかりちゃんがついていくように外に出て行ったそうです。

その後、20年たった今もゆかりちゃんは戻ってきていません。